第30話

「えっ! 足りるってもんじゃあないですぜ! いいんですかい?」

 喜色を浮かべるその様子から、相場以上の金額を渡したことを察する。


「多いのなら釣銭をもらおう」

「ですよねえ」


 靴磨きの男はがくりと肩を沈めた。

 世間で出回っているサービスの相場に慣れていないディートハルトが最初に渡した額は、靴磨きで得る報酬の約二週間分であった。


 返してもらった銀貨と釣銭を受け取ったディートハルトは「情報料だ」と銀貨一枚を男に手渡した。


「下種な勘繰りは今後改めるように。では、失礼する」


 ディートハルトは立ち上がり、教えられた教会へ向けて歩き出した。

 銀貨を持ち歩き、自ら支払いをし、さらには釣銭まで受け取った。


 これはもう世慣れしたも同義だ。買い物の達人になった気分であった。

 前回の失敗を踏まえた行動の結果である。


 イルーゼとの記念すべき初デートの日、幸せな気分でアイスクリームを食べ終え、代金を支払うとなった時、ディートハルトはいつものように小切手を取り出し署名するためにペンを借りたいとテーブル席にやってきた店員に告げた。


「お客様。当店は現金払いのみとなっております」と恐縮そうに言う店員に「そうなのか。ではこれで」と、ディートハルトが代わりに取り出したのは金貨だった。それも大金貨と呼ばれるデイゲルンで最も価値の高い金貨。


 息を呑む店員とイルーゼの様子にも気付かずにディートハルトは、さあ会計を済ませてくれとばかりに待ちの姿勢に入った。


 そんな彼の隣で突然「ディートハルト様、ここはわたしが払います」とイルーゼが財布から銀貨を取り出し店員に渡した。


 店員はイルーゼから銀貨を受け取り、エプロンの前ポケットに手を突っ込み、彼女に釣銭を手渡した。三十秒にも満たないスムーズなやり取りに置いてけぼりにされたディートハルトは手のひらの上に大金貨を乗せたまま固まることとなった。


「さ、行きますよ。それ、仕舞ってください。手に持ったままじゃ盗ってくれって言っているようなものですよ」


 と言ったイルーゼの声に若干の呆れが混じっていたことは、絶対にディートハルトの思い過ごしではない。

 前回彼女が邸宅を訪れた時にやからした分を取り戻そうと意気込んでいたのに、またしても失敗してしまった。


 打ちひしがれるディートハルトはとぼとぼと階段を降り、店の外へ出た。

 直後「うぅ……」と苦悩の声が漏れてしまった。


 ディートハルトの変化に気付いたイルーゼに「どうしました?」と尋ねられれば「……スマートな振る舞いをしてイルーゼに見直してもらうはずだったのに……最後の最後でこのような――」と絶望の声が漏れるのを止めることができなかった。


「仕方ないですよ。今日は一般市民を相手にしているお店に行きましたし。ちゃんとお金を持ってきていたことは偉いと思います」


 その偉いはおそらく、期待はしていなかったけれど、まあまあの働きをしてくれた。失敗もあったけれど、というような、まだあまり人となりを知らない新人の仕事ぶりへの感想と同じようなニュアンスのように感じた。


 貴族の買い物はツケか小切手払いのどちらかだ。現金を持ち歩くのは従者など使用人の役割である。

 デートに従者を連れて歩く選択肢などなかったディートハルトは念のために硬貨を準備したのだが、市井で大金貨はほぼ出回ることなどないのだということを、あの日イルーゼから教えてもらって初めて知った。

 足りなくなるよりもいいだろうと考えたのだが、心配する方向性が違っていたのだ。


「イルーゼに支払わせてしまった。初デート記念に私が格好良く支払いたかったのに」と悲壮感を丸出しにするディートハルトに彼女は「このくらいわたしにだって払えるので、気にしないでください」と言った。


 彼女もディートハルトと同様に働いているためそうだろうが、世間では交際する男女の会計は、男性側が持つものだという観念がまかり通っているのである。


 そのくらいは男女関係に疎いディートハルトだって知っている。

 それ以上に失敗したことが悲しく悔しかった。

 背中から漂う哀愁に思うことがあったのか、イルーゼが一歩こちらへと近付いてきて、こんなことを言った。


「では次回はディートハルト様がおごってください。ちゃんと銀貨を用意してきてくださいね」


 あの時のイルーゼは天使かと思った。

 ディートハルトから二回目を誘う前に彼女の方から提案してくれたのだ。


 あの日のイルーゼはずっと愛らしい笑顔を見せてくれていた。

 宮殿で見かける対仕事用の微笑みではなく、素の表情をたくさんディートハルトの前に出してくれたのだ。


 うっすら頬を染めるところも、照れて唇をすぼめるところも、何もかもが可愛くて新鮮で、アイスクリーム店でいちゃつく男女二人組たちの空気に後押しされて口付けまでしてしまった。


 店を出たあと、二人でいくつかの通りを見て歩くのも楽しかった。

 彼女も楽しんでくれている。そうと分かる笑顔に胸の奥がはちきれそうになった。

 仕事の成果で得られる満足とは違う喜びに胸が支配された。


 あれこそが恋する喜びなのだろう。

 彼女と交際を始め、教わった気持ち。

 これを大切に育てていきたいと思う。


 胸の中に湧き起こる甘い気持ちを素直に表情に出しながら、ディートハルトは教会の鉄門に手を伸ばした。


 気配を殺して建物の横から奥へ伸びる細い通路を進む。

 足元の煉瓦道の隅にはいくつか鉢植えが置かれている。管理者が育てているのだろう。手入れは行き届いている模様だ。


 奥へ近付くにつれて、ぼそぼそと誰かが会話する声を拾う。

 さらに足を進める。

 男と女の声だ。


「議員法の改正をシュヴァルツェン宰相が企んでいるのは知っているな」

「……はい」


 男の声はどうでもよかったが、頷いた女性の方は即座に分かった。イルーゼだ。


(やはりその話か……)


 デイゲルンは王政だが、議会を通して法律や予算案を可決させる必要がある。

 その議会は、貴族の称号を持つ者たちで構成される『本議会』と、主に貴族の子弟や聖職者で構成される『準議会』の二つに分かれている。


 ディートハルトは王の意向のもと、この議会制度の見直しを図っており、準議会に市民階級、つまりは貴族の縁者ではない者の参加を認めるための法改正に取り組んでいる。


 大陸西の端にある国では、商人の力が強く、政に参加することができる制度が整えられている。端的に言えば、貴族や聖職者以外であっても一定の条件下で議会に議席を持てるのだ。

 その大陸西に広がる大洋、西端海の先にある新大陸に建国された移民国家では、共和制が採択され、国の代表は議会で選出された議長が務めている。


 国王は、力をつけつつある市民階級が共和制に希望を見出すことを恐れている。

 それともう一つ。有力市民を味方につけることで、利権に固執する一部の貴族たちの力を削ぎたいのだ。


「シュヴァルツェン宰相たちは議員たちに根回しを行っている。おまえは議員法の改正に賛成する者を聞き出してこい」


 彼女を政争には巻き込みたくなかったのだが――。

 だが、今出ていったところで牽制はできてもカレルギー伯爵を拘束するまでには至らない。ただ、彼らが切羽詰まっていることと、妨害工作を意図していることは分かった。


「……お時間をいただくことになると思いますが……努力はします」

「いちいち口答えをするな。はい、とだけ答えろ」

「しかし――」

「おまえが手紙に書いて寄越したのだろう。シュヴァルツェン宰相の誘惑は順調に進んでいます、と。すでに奴がおまえに骨抜きになっているのなら簡単なことだ」


 ドクン。心臓の鼓動が体中に響いた。


 誘惑? 順調に進んでいる――?

 一体、何の話をしている?


「……分かりました」

 体を強張らせるディートハルトのすぐ側から、イルーゼの返事が聞こえてきた。

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