第10話

 カレルギー伯爵夫妻と一緒に宮殿の大広間へ入場したイルーゼは、思わず「わあ……」という感嘆を口から漏らしてしまった。


 無理もない。宮殿勤めといえども、侍女は舞踏会や式典には参加せずに裏方に徹することがほとんどで、いつも控え室でハイデマリーの戻りを待つ側だからだ。


 天井から吊り下げられた大きなシャンデリア。壁面を飾る大きな鏡。美しいマーブル模様の大理石の床。豪華な宮殿の内装は見慣れているが、舞踏会という特別な場だからだろうか、何もかもが輝いて見えた。


「おまえがどうしてもと言うから連れて来てやったのよ。田舎者丸出しできょろきょろしないで。恥ずかしい」


 横から冷たい声が聞こえた。カレルギー伯爵夫人である。

 イルーゼは「すみません」と謝り、視線を前方へと定め、視線を散逸させないよう気合を入れた。


「おまえのドレスと装飾品は貸してやっているのですからね。絶対に失くさないようにしてちょうだい」


 これにも「はい」と頷いておいた。

 心の中でのみ、わたしは一言も舞踏会に出たいなんて言ってないんですけど、と呟いておく。


 やがて、ファンファーレが鳴った。

 国王の挨拶と共に舞踏会の幕が開ける。

 最初は円舞曲だ。


「おまえは壁際に立っていなさい」


 カレルギー伯爵夫人はイルーゼを邪魔者として扱うことに決めたようだ。

 別に舞踏会を楽しみたくて参加したわけではないし、ダンスだって昔習ったきりで最近は踊っていないから不安しかない。


 素直に従おうとしたイルーゼのもとに、なんとハイデマリーがやってきた。


「イルーゼ、こちらへいらっしゃい」


 これにはカレルギー伯爵夫妻が揃って口をぽかりと開けて驚いた。

 今宵は伯爵家に準ずる令嬢として扱ってくれるらしい。


「ありがとうございます。で、でもわたしダンスは久しぶりで――」

「あら、最初の曲だもの。振り付けは簡単よ。すぐに思い出せるわ」


 などと言われ、彼女に導かれるままにフロアへ足を進めて定位置につけば、待ってましたとばかりに旋律が響き出した。


 ちらりと隣のご婦人を見て、最初の一歩を踏み出す。

 初めこそぎこちない動きであったが、同じ動作を繰り返すだけのため、徐々に肩から力が抜けていった。


 円舞曲はダンスの相手が次々と変わっていくのだが、目の前にやってくる紳士が皆、この国の重鎮ばかりで、別の意味で気が遠くなりそうだ。


 何人目かで、ディートハルトが目の前へとやってきた。


(うわ……。正装姿のシュヴァルツェン宰相……すごい……)


 完璧な貴公子姿に、彼に恋していないはずのイルーゼですら目を吸い寄せられてしまう。


 漆黒のフロックコートに光沢のある絹製のクラヴァット。上着の中に着込んだアイボリーのジレには、同系色の美しい刺繍が施されている。

 髪の毛は適度に横に流されていて、涼やかな目元を際立たせているように思える。


 感情の見せない様相は冷たさすら感じさせるのに、その身から滲み出る高貴さと相まって逆にふらふらと近付いてしまいたくなるのはいかがなものか。

 そりゃあ女性たちが虜になるはずだと、イルーゼは数秒の間に立ち直って分析に励んでしまった。


「……きみは……」


 熱心に見つめすぎたせいか、ディートハルトに赤いドレスを着た女がハイデマリーの侍女であることがバレてしまったかもしれない。

 慌てて下を向こうとしたイルーゼは、寸前で思いとどまった。


 このあと、ディートハルトに色仕掛けして誘惑するミッションが待ち受けているのだ。

 今から布石を打っておいた方がいいかもしれない。

 そう考えて、ニコッと愛想よく笑ってみた。


 直後、「うっ……」とうめき声にも聞こえる吐息がディートハルトの唇から漏れた。

 ダンスの最中のため、手と手が触れ合う。

 なぜかディートハルトの足がもつれたように思えたのだが……。一瞬のことなので見間違えかもしれない。


 初めての舞踏会は緊張の連続だった。

 数曲が終わったのち、ハイデマリーは再びイルーゼに近付いてきてカレルギー伯爵夫妻に声をかけた。


「イルーゼは外国語も堪能で、手紙や書類の音読もつっかえることなくすらすらこなしてくれるの。なくてはならない存在だわ」


 これはカレルギー伯爵にとって、嬉しい誤算だった模様だ。

 ハイデマリーは近い未来に向けた根回しの一環で声をかけたにすぎないのだが、カレルギー伯爵はそれに気付くはずもなく、分かりやすく機嫌をよくした。


 妹は王女殿下のお気に入りだと自慢したくなったのか、彼が属する政治派閥の者たちへのあいさつ回りへ連れていかれることとなった。

 それを見やる夫人の目の奥が笑っていなくて、早く解放されたくて仕方なかったのに兄は気付いてくれないどころか、派閥の筆頭であるルガート公爵に挨拶しに行くのだから、勘弁してと心の中で呟いた。


「これが私の異母妹でございます。ハイデマリー王女殿下に思いのほか可愛がられているようでして」


 ほくほく顔のカレルギー伯爵に紹介されたイルーゼは、昔家庭教師から習った淑女の礼を丁寧にとった。


「イルーゼ・カレルギーと申します。父は前カレルギー伯爵位を拝していました、ヴォルフ・カレルギーにございます」

「そうか。前カレルギー伯爵のことは私もよく存じている。晩年は領地で過ごしておったな。このように美しい娘と過ごすことができて、伯爵もさぞ幸せだったろう」


 四十後半のカレルギー伯爵よりも十は年上であろうルガート公爵は、鷹揚な笑みを浮かべながらイルーゼを見つめた。

 腰巾着の異母妹にいちいち興味を向けるほど暇ではないようで、その一言だけで挨拶は終わった。


 カレルギー伯爵は仲間たちと政治談議を始めてしまい、弾かれた形になったイルーゼは気配を殺しながらその場から離れた。


 壁際にやってきて、ようやく一息つく。

 知り合いも友人もほぼいない舞踏会だったが、先ほど異母兄に連れられてあいさつ回りをしたのが効いたのか、二曲ほど見知らぬ紳士にダンスを誘われた。


 イルーゼも年頃の娘だ。

 ダンスの申し込みに僅かばかり心が高揚し、その手を取ってしまった。


 きっと、こういうのが出会いといわれるもので、恋が始まるきっかけになるのだろう。


 現実的には、会話を広げられるほどの経験も機転もなくて、曲の終了と共にお別れになったけれど。

 それでも、雲の上に乗っかるようなふわふわした不思議な高揚感に包まれていた。


 いつか読んだ物語に書いてあった。舞踏会には魔法がかかっているのだと。

 今なら、そう書かれてあった理由が分かるような気がした。


 もしも兄が半分しか血のつながりがないイルーゼを慈しんでくれるような人物だったら、今頃イルーゼも舞踏会でまだ見ぬ恋の相手について夢想していたかもしれない。

 兄から逃げることを考えずに、今日舞踏会に出席している他の淑女たちのように結婚相手を探していたかもしれない。


 イルーゼだって、恋に興味が全くないわけではない。同僚たちの恋愛話が耳に入ってくるため、そこらの貴族の令嬢よりは男女のあれやこれやに精通していると自負しているし、その手のことに興味がないわけではない。


 周りが盛り上がっていると、自分の身に起こったらどうなるだろうという想像を働かせてしまうこともある。


 ただ、今は考えられないだけで。


「イルーゼ。こんなところで何、油を売っているんだ」

「うわっ」


 突然話しかけられたせいで、場に似合わない声が出た。

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