第4話

 イルーゼ・カレルギーは幸福な少女であった。

 生まれは伯爵位を継ぐ父のもと。デイゲルン王国の中南部に位置する領地の屋敷で生を受けたイルーゼは、優しい両親に温かく育てられた。


 イルーゼには年の離れた兄と姉がいた。姉はイルーゼが乳幼児の頃に嫁いだため、あまり面識がない。イルーゼが生まれた時、兄はすでに妻を持っていた。


 それだけ年が離れているのにはわけがある。

 母は父の後妻で、もともとは西の隣国アルンレイヒで女優活動をしていた。


 父の熱心な求愛活動に絆された母が女優業を引退しデイゲルンへ移住。

 父は前妻を失くして以降、十年ほど独り身だったそうだが、新しく妻を迎えたことで目に見えて明るくなったそうだ。


 娘の目から見ても、父と母は仲良く見えた。

 母曰く「あの人の熱心さに根負けしたのよね」とのことだったが、その声は夫に心を預けているのが分かる柔らかさを有していた。


 異母兄がイルーゼに強いようとするような後妻業ではなく、本人たちの意思で行われた婚姻だった。

 だから領地のお屋敷は暖かさに溢れていた。


 半隠居になった父伯爵は昔よりも性格が丸くなったそうで、よく母と一緒に屋敷の周辺を散策していたし、使用人たちにも気さくに声をかけていた。


 貴族の家に嫁いだ母は、父の庇護のもと社交は最低限に領地でのびのびと暮らし、イルーゼの養育にも積極的に関わった。


 優しい両親の愛情をたっぷり注がれたイルーゼは領地のお屋敷で健やかに成長した。


 そんなイルーゼが現実を突きつけられたのは、病で母が亡くなり、その一年数か月後に後を追うように父が衰弱し亡くなってしまった十四歳の頃のことだった。


 伯爵位を継いだ兄は、イルーゼをはっきりと厄介な娘として扱った。

 半分血が繋がっているとはいえ、母親は一般市民の女優。何の後ろ盾もない。


 カレルギー家に平民の血が混ざるなど不愉快極まりない。年寄りの道楽だと思い我慢してきたが、子供まで作りやがって。おまえに財産など渡すものか。などと、彼はイルーゼを害虫か何かを見る目つきで見下ろした。


 父は生前ことあるごとに「私がいなくなってもイルーゼたちに不自由な思いはさせないようにするからな」と言っていた。


 十を超えた頃に、父が言う不自由させないとは、住む場所もしくは食うに困らずに暮らせるだけのお金を残してくれるという意味だと理解した。


 父が母を後妻に向かえ入れたのは四十八歳の頃だ。世間での男性の平均寿命は六十前後。色々と心配だったのだろう。


 結果として癌を患った母の方が先に逝くことになってしまったが。


 父が亡くなり、兄が爵位と共に伯爵家の財産を受け継いだことでイルーゼにはさまざまな変化が訪れた。


 そして、父の再婚と自分の存在が親族たちに受け入れられていなかったことも理解させられた。


 成長するにつれて薄々察してはいたが、領地のお屋敷に勤める古参の使用人たちは皆イルーゼと母に優しかったため、年に数度しか会わない異母兄姉たちのことは遠い存在だと考えていたのだ。


 父亡きあと、兄は父がイルーゼへ個人的に残していた土地の権利や現金預金などを全て奪い、修道院併設の寄宿学校へ放り込んだ。


 もしもイルーゼの母が貴族は無理だとしても、どこかの土地の名士、軍人、もしくは羽振りのいい商人の家に生まれていれば、また違ったのかもしれない。


 隣国出身の母は、あまり実家のことを話さなかった。色々と事情があったのだろう。

 後ろ盾のない小娘の主張など、大人の世界ではないも同然。父親の顧問弁護士を解雇した兄は、イルーゼの権利を取り上げたというわけだ。


 寄宿学校という名の檻に入れられたイルーゼは、不幸のどん底に落とされたと泣いた自分の境遇が、そう珍しいことでもないことを知ることとなった。


 修道院併設の寄宿学校には礼儀見習いという理由の他に、厄介者払いという理由で入れられる少女たちが少なからず在籍していたからだ。


 前妻が生んだ娘は邪魔だ、夫の子供でないことがバレてしまうのが怖い、遠い異国の地に赴任になった兄の娘の面倒まで見きれないなどなど、理由はさまざまだった。


 寄宿学校という名の檻の中に入れられた少女たちは、似たような境遇の者同士で慰め合った。

 泣いても悲観しても自分たちの境遇は変わらない。財産も後ろ盾もない子供が一人外の世界で生きていけるほど世間は甘くはない。


 修道女たちは預けられた少女たちに礼儀作法を教えて貞淑と敬虔さを説きはするものの、世渡りの方法までは教えてくれない。


 下手に身分だけはある少女たちは、世間体という名のもと働きに出ることすら許されないのである。

 なぜならイルーゼたちが身を置く階級では、不名誉とされない職種というものは非常に限定的なのである。


 お針子や食堂の給仕係や洗濯などの家事労働につこうものなら、世間体を考えろ、恥をかかせる気か、と言って反対してくるのである。

 結果としてイルーゼたち寄宿制たちは、家族の迎えが来るまで籠の鳥の如き生活を余儀なくされるのだった。


 どこからかともなく、チリンチリンという鐘の音が聞こえてきた。

 午後の授業だろうか、と考えたところでイルーゼは見慣れた天井を見つめていた。


「……懐かしい夢を見たわ」


 聞こえてくるのは午後の授業を知らせる鐘の音ではなく、起床時間を知らせて回る鈴の音だ。


 部屋の外に運ばれてくる水を使って顔を洗ったのち、丁寧に髪の毛を梳る。

 寝間着を脱いで着付けるのは、濃い青色の簡素なドレスだ。飾りはほぼなく、唯一あるとしたら前身頃に縫いつけられているくるみボタンくらいなものだろう。


 ミルクティー色の髪は後ろでまとめて団子にする。これにりぼんを巻くのが唯一のおしゃれである。侍女は主人よりも目立ってはいけないのだ。そして上級職の女官よりも控えめに。女ばかりの職場で生き残る知恵である。


 侍女の仕事に就いたのは、もうすぐ十七歳になろうかといういう頃のことだった。

 なんと異母兄が突如現れ、イルーゼを引き取り、宮殿へと連れて行ったのだ。


 政治パフォーマンスの一環として、イルーゼを第二王女付きの侍女にするのだという。

 そんな簡単になれるものかと訝しんだが、現伯爵の推薦ということもあり難なく侍女職に就くことができた。そういえばわたしのお父様は前伯爵だったと思い出した次第である。


 異母兄の身勝手さに降り回されることにはなったが、働き始めてみると、この仕事はイルーゼの水に合っていた。

 宮殿併設の宿舎での生活は寄宿舎の延長のようなものだったし、仕事で実績を積めば任される仕事も多くなり、ハイデマリーから信頼されるようにもなった。


 最初は自分の意思など介在していなかったのに、いつの間にか侍女の仕事に誇りを持つようになっていた。


「イルーゼ、少しいいかしら」


 朝の仕事が一段落したところで、主であるハイデマリーに名を呼ばれた。

 直属の直属の上司である女官長フリッシュ夫人には朝一番に昨日の急な休暇の詫びと、ハイデマリーが気にするような用件ではなかった旨を説明しておいたのだが、まだ不安に思うことがあるのだろうか。


(ハイデマリー様のお声、どことなく険があるような……)

 訝しみながらイルーゼは慎重に返事をする。


「何かございましたでしょうか」

「フリッシュ夫人以外の他の者たちは少しの間、席を外して」


 その一声で居合わせた者たちが静かに退出する。


 ハイデマリーは室内の中央に設えられている長椅子に腰かけ「あなたもここに座りなさい」とイルーゼに向けて促した。


 褐色の髪の一部をりぼんで結び残りを背中に流し、お気に入りの若草色の室内着を纏うハイデマリーは普段の瑞々しい果実のような溌溂さは潜め、灰緑色のペリドットにも似た瞳はどこか物憂げだ。


 こういう時、侍女であるイルーゼは発言を許されていない。

 主が口を開くのを待つしかない。


「イルーゼ、あなた次の舞踏会に出席したいのですって?」

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